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渡辺旅行研究所 ホテルコミュニティプレミアム マッカーサー元帥とホテルニューグランド

マッカーサー元帥とホテルニューグランド

(当ページの内容は、主観的情報、時間の経過などから、正確性、完全性は保障いたしておりません。ご利用の際には宿や予約サイトにご確認されることをおすすめします。)

 しかし開業後のホテルニューグランドの歴史は決して平坦なものではありませんでした。開業からわずか10数年で、太平洋戦争の勃発。戦時中も何とか営業を続けたホテルニューグランドも、終戦となった8月15日に一時解散することを決めました。

 「一時各自の家に戻り、いつの日にか開業の機会が訪れたら駆けつけて欲しい」と徴兵から逃れたわずかな従業員は告げられたそうです。

 そんなホテルに戦後一番にやってきた人物、それが連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサーでした。あの有名なコーンパイプ、濃いサングラス、ノーネクタイ姿で1945年8月30日、厚木飛行場に降り立ったマッカーサー元帥。彼は「どこへ」と聞かれると、「ホテルニューグランドへ」と答えたと言います。マッカーサー元帥は戦争前から日本を5回訪れた経験があり、その際、ホテルニューグランドに2度も宿泊した経験があったのです。ゾーン夫人との新婚旅行もホテルニューグランドでした。

 よほど心に残る、お気に入りのホテルだったのでしょう。マッカーサー元帥は声明文朗読の後、すぐさま乗用車に乗り込み、まっすぐホテルニューグランドを目指しました。そもそも進駐軍が滞留地を横浜とした背景には、最高司令官の宿舎として、戦火を逃れたホテルニューグランドがふさわしいとの意見があったからと伝えられています。

 ホテルニューグランドでマッカーサー元帥を迎えたのは、当時のホテルニューグランドの会長、野村洋三でした。野村はマッカーサーに何のおもてなしもできないことを心から詫びるとともに、日本の窮状を流暢な英語で訴えました。横浜全域が空襲で焼失したこと、老人や女性、子供たちが食糧難にあえいでいること、また市民の不安など…。野村の言葉に、マッカーサー元帥は気軽に耳を傾けたそうです。そして、かつては日本を代表したホテルが扇風機ひとつ、ハンバーガーひとつ用意できない惨状からも市民の窮状を察したのでしょう。数日後には横浜市民のための大量の物資を用意してくれたと言います。マッカーサー元帥が宿泊した315号室は、それ以来、正式名「マッカーサーズスイート」、俗に「勝利の間」と呼ばれ、彼が実際に使ったライティングデスクとイスも大切に残されています。

 その後1952年(昭和27年)、接収が解除され、ホテルニューグランドが横浜市民のもとへ戻るまでの約7年間、連合軍のアメリカ人たちから従業員に教えられた多くの流儀やノウハウは、その後のホテルニューグランドの進化に大いに役立つこととなったのです。


ホテルニューグランド

(資料提供:ホテルニューグランド)

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